秩父昇天記あとがき

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先ほど昇天記を書き終えた。

諸賢には今月末頃まで、どうぞおつきあい頂きたい。この九去堂としては、この夏が終わったという感慨にふける。例年、押しつぶされるような世間に挟まれていなければ、たいてい馬を駆って全国を巡っていた。今年もまたその余裕無しと見ていたが。

思わぬ事にSくんの尽力で、良い夏休みを過ごすことが出来た。書けなかったこと、書き残したことはまだまだあるが、この夏を生涯忘れまい。その、書き残した一つはKくんのことで、飯能駅からの電車中、今後についてのあれこれや不安を聞いた。

私はこう答えた。どこに行っても、竹刀だけは放しちゃいけないよと。つまり環境は変えられない、変えることは出来るがずいぶん手間だし、変えても同じような問題はのしかかる。変えられるのは自分だけ、そして変わらなければ我は斬られる。

それが剣の教え。人に代わって立ち会うことも、代わって貰うことも出来ない。頼りになるのは自分だけ。だから物騒なたとえだが、男は素手で人を殴り殺せるまでになっておくべきだ。殺せるからこそ、殺さないという決意が出来もするのだから。

だから武道は、人生を豊かにし得るわけ。殺しも出来ない奴が、おもしろ半分に人を殺している。通り魔然り、快適な作戦室に居るアメリカの高官然り。話を戻せば、人に出来るのはたった3つ、体と頭と心を鍛えることだ。ただし幸か不幸か心の方は。

どうせ世間がよってたかって、この我をいじめ上げて鍛えてくれる。だからどこに居ようといくつになろうと、勉強と鍛錬は欠かしてはいけないし、かいた汗の分だけ我は強くなる。強くなれれば優しくもなれる。強くもないのに優しい振りしている奴は。

未曾有のこの時代に噛み砕かれることになる。その兆候は年々激しい。かかる者どもが平然に見えるのは、崩れる直前の堤防に過ぎない。センサーを埋め測量し圧を計れば、もう限界だと見て取れる。それは勉強した者だけが見る事が出来る。

しなかった者はわあわあと、水に呑まれて死に絶える。した者も運が良くなければ死に絶える。ただし我はやるだけやったと、満足しながら死に絶え得る。お金も異性も地位名誉も持っては行けないし、我が子さえも我を楽しませるとは限らない。

却って生涯我を苦しめる病原にもなる。そんなことはないと言い張るのは、たまたまの幸せ者か、言い張ってカネを巡らそうとする世間師だけだ。議員が哀れなすだれを止められないように、他人の目を気にしていては、我が人生を生きられはしない。

我らは幸いにも、勉強が苦にならず、稽古が苦にならない体質に生まれた。これは幸福のタネではないかも知れないが、我が生を生きるには不可欠の素養。なれば幸福とは何かすら怪しくなってくる。極貧にあった哲人が、幸福な生を終えたように。

鍛えてさえいれば、どんな問題にも必ず解がある。

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