バイスタンダー保険制度:応急手当て保険初運用 負傷・罹患時に見舞金 東京消防庁、あすから
http://mainichi.jp/shimen/news/20150908dde041040050000c.html

この九去堂は、上級救命資格を持っている。定期的に訓練を受けて更新し、もう20年近くなる。その費用は言うまでもなく自腹だが、それは別に、いい。
ただ、うかつに人助けはすまいと、固く決意している。引用記事の如き感染や負傷の恐れがあるだけではなく、相手がクズであった場合を恐れるからだ。


見近島からの帰り。大名行列の伊予街道から解放され、国境の峠に向かった。
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人煙絶えた山道をメイト君と共にトコトコ行くと、不意の渋滞に出くわした。
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工事中の規制かと思ったが様子がおかしい。すり抜けて前に出てみれば…。
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出来たての事故だった。
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見れば路傍に若い男が口に布を詰め込まれて座り込み、血を流している。
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意識はあるようだ。彼が濡れた路面で飛ばし過ぎ、車線をはみ出し登りのトラックとぶつかった、と思われた。さてどうする。
人も大勢出ているようで、救護も進んでいると思われた。自分にできることは何もない、と言い聞かせて退避。
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いい気分で、あるわけがない。暫時迷ったことも不愉快だ。なぜか? …先のエントリで引用した通り、「よいこと」が世間で勧められているのは、「お前だけそうしろ」という、タカる気満々の受益者の弁、あるいは全世間的詐欺だからだ。
それに気づかれていない社会を、信用のある社会、と畏友天狗先生は言う。その崩壊の萌芽はもう何十年も前に始まっていた。そもそも引用記事のような話はそのころからあったのに、何も社会的な手立ては打たれなかった。
しかも記事内容の保護範囲は救助者の受ける損害の、ごく軽い部分でしかない。下手に助けでもしたら、のちに障害が残った時、どんな責めを負わされるか知れたものではない。そしてそうした実例は、ネット以前には深く隠されていた。
ネットの功罪、共に在り。
講習の際、この不安を取り除こうと、「善きサマリア人の法」が必ず説かれる。しかし法として成立しているのはアメリカの話で、ポンニチにはその気配すらない。「良き者から死んでいった」という、『夜と霧』の記述が思い出される。
つまり「よいこと」が通る社会は私のような者にも望ましい。だがこれまで、あまりにタカられ過ぎてすっかり擦り減ってしまった。これからは信用ではなく信頼の世だと天狗先生も言う。関わる者はおのずから、最小限にならざるを得ない。
それにしても、見過ごさず渋滞に付き合い続けていた四国人の景色はなぜだろう。四輪ゆえ身動きが取れぬのだろうが、人の好さや信用への信頼がまだ多く残っているのかもしれない。それは好ましい土地と言うべきだ。
たびたび訪れたくなるのが道理であった。


付記。こうした四国人の一方、

当該法律の立法化が不要だと主張するのは、主に救命現場と直接関わりのない法律家である。(上記リンク先wiki)

この一例を取るだけでも明白だ。食い物にする立場の連中が、「よいこと」を「お前だけがしろ」と言う。こんな奴らが法を擅断するポンニチに、信用なぞあるものか。

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