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おいしい魚沼コシヒカリのおこわで腹ごしらえを済ませ、SA併設のICから一般道へ出る。今回の旅はすべて運転をSくんにお任せのため、どこをどう走ったかという記憶が定かでない。ゆえに地図を参照しながらこれを書いているが、どこで高速を出たか、という今の記述もそうである。やはり歳は取りたくないものだ。
高速を出ると、「神社に行きましょう」とSくんが言う。Sくんにはお宮参りの趣味があると聞いていたが、私にとってもそれは悪くない。至って無宗教の私だが、神社仏閣の神さびた雰囲気は好みだからだ。
信越線沿いの道を行けば、田んぼと所々の住宅が交雑する、日本の田舎らしい風景である。時折巨大な工場に出くわしたりもするが、よく見ると近代的な酒蔵であったりする。さすがはおいしい米どころであり、越後杜氏の本場じゃわいと思うが、後日のチエでは昭和初期になるまで、新潟の米は「鳥またぎ」とまで酷評されていたという。農業試験場の先生方が努力なさってそれが実り、今日の米どころにつながったようだが、やはり実学というのは敬すべき学問だ。
酒蔵の近くで信越線を渡る。踏切の向こうは狭く細く、しかも急な勾配を持つ坂道だ。あたかも「ここからは林道ですよ」と言いたげな道である。ならばよほどの古社に向かうと見える。Sくんはどうか知らないが、私は枯れた神社仏閣を好むので、一体どんな厳(いつ)きお社(やしろ)が現れるのかとわくわくする。そしてくねった坂道を曲がりきると…
え? ウソ、まさか…。
じゃ~ん。

ぼわ~ん、チュンチンチュンチンチュンチンチュンチン、ぺお~、ぱお~、と、やかましい京劇が聞こえてきそうな異空間が現れた。上の画像は広角レンズで撮ったものだからわかりにくいが、目の錯覚を起こしそうなほどの巨大建築群である。
しかも巨大建築はこれだけでなく、あと2、3棟はあり、それらが天空の回廊でつながっている。
ここは宝**稲**社といい、それなら稲荷のはずである。ところが稲荷らしいのは赤い鳥居と赤白のノボリ、鳥居の近くに申し訳程度のおキツネ様が鎮座ましましている程度で、あとはちっともそれっぽくない。
車のドアを開けて、構造物を眺め上げている私の頭には、早速「新興○教」だの「ヰン千キ教団」だのといった概念が高速回転しているが、それを口に出すのもはばかられて、ただポカンと口を開けている。Sくんもまた黙っている。
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Sくんや…。
はい…。
なんでしょね、こりゃ。
なんなんですかねー。
金バッジの菊花紋に、千木に鰹木ですか。しかも豪勢なテラス付き。こりゃ稲荷じゃなくて、古代出雲様式とナントカのちゃんぽんでしょ
そーですね、ど~見ても稲荷造りじゃないですよね~。角さん現象ですかね~。
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然り、稲荷社のくせに巨大なキンキラキンの菊花紋が、それも2つもついている。花弁の数はいくつかと一瞬思ったが、バカバカしくて数えるのをやめた。
気を取り直してとりあえず拝殿に向かう。私もSくんも、そこは瞬時にお行儀の良くなることも出来なくはないインテリだから、キチンと作法通りに手水を使い、潔斎の形だけは整えた。それにしても気になるのは人の少なさである。これ程の結構であり、しかも週末でありながら、参詣者はまばらにしかいない。やはり新○宗教であるならんと思えば、近郷近在の酒蔵の献酒だけは立派である。
拝殿に入ると、今日は急なお客さんが来たから、物置片付けて入ってもらいました、と言わんばかりの雰囲気である。あとでわかったのだが本来の拝殿は別にあり、そこ(→)はまことに結構な結構、すきまから覗けば中身もキンキラキンだったのだが、厳重に鎖錠してある。対して入っちゃった(仮?)拝殿には、金が余ったから造ってもらいましたというような妙な鎧が、ホコリかぶったガラスケースに置いてあるやら、地元の有名人山本五十六提督の等身大写真があって、その前にほうきとちりとりが投げ出してあるやら。どことなく、昭和に流行って今はさびれた場末の温泉宿を彷彿とさせる。
無論、正面には幣を捧げた結界が切ってはあるが、あまり掃除も行き届いていないようで、神さびたとか古枯れたというようなありがたさとはちょっと違う。しかしここに入れなさいと言わんばかりのマッシブな賽銭箱だけはあって、仮拝殿の真ん中にそれが据えられている。かかる銭函の前で一応頭を下げるだけは下げたが、何も念じずもちろん投げ銭もしない。
せっかく来たのだから何かありがたきものはないかと、お札お守りのたぐいが並んでいる授け所を覗く。これを心理学では補償行為という。まずは無代のパンフを手に取るが、祭神も来歴も聞いたことがないような話だ。その説くところによれば、このお社は縄文時代(!)から有ると言うし、持統天皇期に越後稲荷の総鎮守としての勅許を得た、そして祭神は初めて聞くナントカ神サマ云々とある。
?? 稲荷ならばいくらさかのぼっても欽明朝からだし、祭神はトユケノオオカミのような農業=地母神か、ダキニ真天のはずだ。ついでに持統天皇期の越国に、元締めが要るほど稲荷がたくさんあったとは思えない。しかも殷帝ダイオウだのてんてる白菊ホートクなんたらだの、中途半端な古文漢文読みが、パンピーをだます時に書きそうな用語が使ってある。どうせ流行らすなら稲荷なんか名乗らなきゃいいのに、てなことが頭をぐるんぐるん、素直に有り難がればいいものを、インテリというのは本当に度し難い。
まるで前衛映画を見終わった時のような気分と表情で、Sくん共々仮拝殿を出る。納得がいかないので、人っ子一人いない本来の拝殿あたりをうろうろする。見れば巨大建築の大広間と見えるところに、布団が畳んで積んである。これだけの結構を造り維持しているからには、それなりに大勢の信者がいて、時々参籠するのだろう。なれば本拝殿は信者専用であって、わしらのようなケシカラン風来坊などは、おととい来いと扱われても仕方がない。
この本拝殿はさらに高いところにあるが、そこから下りる立派な階段から、越後平野を眺め下ろす。そこで思ったのは、縄文時代から云々というのは、あながちインチキでもなさそうなことだ。
縄文期には海進が大きかったから、こんにちの越後平野は海だったはずである。ならばこの場所は江ノ島のような陸近くの島か、岬であったろう。岬=神先であって、古代の漁師が拝む場所としてはふさわしい。
さらにもう一つ、日本海の海流を避けた入り江として、また大河の恵みが深い河口として、この場所はまさにふさわしい。ボロ船に乗り、太古にほうほうの体で流れ着いた異つ国のおっさんが、そのままここに居着いて小知恵で原住民をたぶらかし、やがて威張り出すには格好の場所であろう。
ここまで書いちゃったからには神罰は必至だが、当たるものならとっくに当たるようなことを私はこれまでしてきたし、ずいぶん当たったような記憶もあるし。
しかもわかめだらけになって海から上がってきたおっさんに怒られたところで、怖くとも何ともない(海賊だったら怖いが)。友人の言葉を借りるなら、これまでの人生、天罰神罰がさんざん当たり、今当たり終わって、これから仏バチに当たろうとする者が、とうに死んじまったわかめおやじを、恐れるわけにはいかないのだ。
てなわけでSくん、君の気持ちは良くわかる、良ォ~くわかるが、神罰の方は私が引き受けた。
さて話を旅に戻すと、大合併により一応ここは長岡市内で、その意味では長岡に着いたのだが、話はまだまだ終わらない。さてこそ珍道中は面白い。(つづく)

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